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白石市の歴史

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月3日更新

1.先史

(1)縄文時代

 市内には多くの縄文時代の遺跡があり、白石市西部・白石川支流周辺に多く分布しています。縄文人にとって蔵王山東麓は豊かな環境に恵まれていたのでしょう。
 主な遺跡には、県内最古の押型文土器が出土した縄文時代早期の松田遺跡や複式炉を持つ住居跡が多数検出された中期の菅生田遺跡などがあります。

(2)弥生時代

 弥生時代の農耕文化を象徴する遺物に『石包丁(稲を刈り取るときに使う道具)』がありますが、白石地方では斎川周辺からいくつか発見されています。この発見により、白石の農耕基盤の中心は斎川周辺に広がっていたこと考えられ、それに伴う集落もあったと推測されます。

2.古代

(1)古墳時代

 この時代は古墳(大きく盛土され、塚状になった有力者の墓)が多くつくられた時代です。当市でも多くの古墳がつくられ、白石市緑が丘周辺の鷹巣古墳群、斎川地区の亀田古墳群などが代表的なものです。特に鷹巣古墳群中の瓶ケ盛古墳は前方後円墳で、大きさは約60mあり、白石地方最大の古墳です。これらの古墳は5から7世紀ころつくられた当地方の有力者の墓と考えられますが、そのころにはこれらの有力者を支える生産基盤があったことをうかがい知ることができます。

(2)奈良時代

 刈田郡は養老5年(721)に柴田郡から2つの郷が分かれて設置されました。これにより律令時代の白石地方の基盤ができたといえます。
 刈田郡役所跡は東北本線東側に位置していたと考えられ、最近の調査ではそれを裏付ける多くの瓦や倉庫跡などが発見されています。

(3)平安時代

 文治5年(1189)8月7日、源頼朝は奥州藤原氏を討つため28万騎の大群を率い、阿津賀志山麓(あつかしやまふもと)の国見宿(刈田郡の南境外側)に着陣しました。
 対する平泉軍は、藤原泰衡の異母兄西木戸太郎国衡を大将軍とし、2万余騎をもって戦いにおよびましたが、奮闘むなしく敗れました。
 この戦いは、両軍にとって最も大量の軍勢を投入した激戦であり、ここを守ることが平泉の死命を制する戦略上の要であったため、この敗戦は事実上藤原氏の滅亡を決定づけた、大きな意味のある戦いでした。

3.中世

(1)鎌倉時代

 源頼朝の奥州平定により、奥羽は実質上頼朝の支配下となりました。幕府は砂金や馬を年貢として収取し、これが幕府の重要な財源の一つとなっていました。
 その後、執権北条氏の勢力拡大に伴い地頭の配置換えがしばしば行われ、鎌倉末期までに奥羽の大半は得宗領(北条氏領)と変わり、刈田地方もその一つとなりました。

(2)南北朝時代

 鎌倉幕府滅亡に伴い、中央政権は内乱状態に突入しました。この内乱は奥羽にも波及し、刈田地方も例外なく正平6年(1351)、南党勢と北党勢の戦いが起こりました。そこで表舞台に登場したのが柴田郡倉本川(現・白石川)や刈田郡三沢城で、現在でも市内にそれらの遺構が残っています。

(3)室町時代

 このころの遺物として常滑焼などの中世陶器が特徴的に見られますが、白石市では白川犬卒都婆(いぬそとば)地区で中世陶器を大規模に生産した窯跡(東北(とおきた)古窯跡群)が確認されています。ここからは大甕・壷・摺鉢などが大量に出土し、当時この周辺が一大窯業地帯であったことを物語っています。

(4)安土桃山時代

 天正19年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により、当地方は伊達領から蒲生領となり、白石城主は蒲生氏郷家臣の蒲生源左衛門郷成となりました。白石城を近世式の平山城に仕立て、白石城下の基礎を築いたのはこの人物であるといわれています。その後蒲生氏は宇都宮に国替えとなり、刈田郡は上杉景勝領へと変遷をたどりました。

4.江戸時代

 慶長5年(1600)7月、伊達政宗は白石城の上杉氏を攻め落とし、慶長7年(1602)12月、片倉景綱が政宗から白石城と1300貫文の知行を与えられました。それから明治維新までの間、当地方は片倉家の所領としての歴史を歩むことになります。

(1)白石城

 白石城は別名、益岡(ますおか)城とも呼ばれています。「本丸」西北角に三層の大櫓(おおやぐら)があり、その規模は上層:5間×3間、中層:7間×4間半、下層:9間×6間で、石垣の高さ5間1尺、櫓高さ8間4尺でした。
 明治維新後、すべて取り壊されてしまいましたが、一部の門が市内寺院の門として現在も使われるなど、市内の各地にその面影をとどめており、白石の歴史を訪ねる人々を喜ばせています。
 その後白石城は市民運動の盛り上がりから解体後およそ120年を経て平成7年(1995)に復元され、現在も白石市の象徴としてその威容を誇っています。

(2)片倉氏

 片倉氏の出自については「片倉家蔵系譜」以下各書ともに異同がありますが、一般には信濃の出身で南北朝時代奥州探題大崎氏に従って奥州に下り、天文年中、大崎氏のもとを去って出羽に入り伊達家に仕えたといわれています。
 初代片倉小十郎景綱は初代仙台藩主伊達政宗の智将として知られ、以後10代260余年に渡って白石地方を治めました。

(4)戊辰戦争

 慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争の火ぶたが切られました。そのような時勢の中、会津藩救済を求めた仙台・米沢両藩主の呼びかけに応じて奥羽25藩の重臣が白石城に会し、奥羽越列藩同盟を結びました。この同盟は白石同盟と呼ばれます。その後、越後の6藩が加わって奥羽越31藩同盟となり、状況の打開に努めましたが形勢は全く不利で、ついに9月15日降伏し、戦乱は終わりをむかえました。

5.近代

(1)北海道移住

 戊辰敗戦後、白石地方は白石藩、白石県、角田県と様々に形を変えながら明治4年11月、仙台県となりました。家屋敷を失い生活の糧を失った旧白石家中は、侍として北海道に渡るか、以後農民としての人生を送るか二者択一を迫られました。
 北海道に入植することを決意した多くの者が北海道へ旅立ち、新天地に望みを託しましたが、その後に控えていたのは苦難の連続でした。しかしそれらの困難を乗り越え開拓に励み、現在の札幌市白石区・登別市発展の礎を築いたのです。

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