真田家遺臣が開基した清林寺
印刷用ページを表示する 掲載日:2016年2月3日更新
安永6年(1777)の『風土記御用書用・社家』の項には、開山の事として、「当寺は誰開山と申儀ならびに年月共に相知不申候處、寛文11年西誉休中興」とあり、何時誰の開山かは知らないが、西誉善休が中興したとあります。
『刈田郡誌』は、真田家遺臣・三井豊後が、京都西本願寺准如上人の弟子となり、寛永11年(1634)一宇を創立して善久坊と号した。万治2年(1659)本願寺良如上人が、清林寺と改称したとあります。
善休は、三井家の家譜によると真田家遺臣・三井奉膳の二男とあり、奉膳は『片倉代々記・二代重長譜』に、「真田家家臣慕来て謁見し終に家士となれり、三井奉膳等是也」とあります。
家譜によると奉膳は、大坂道明寺口の戦いの日、真田軍鳥銃衆を率い伊達軍と戦い深傷を負い、西本願寺道場に潜隠、主君幸村・大助君の死去を知り、慕い来たとなっています。
この本願寺に潜隠した時、門主に今後は何事あっても生命を全うし、もし、男子が生まれれば僧とし、門徒一寺を創立すると誓約したと伝えています。
その約により、二男は僧・善休(豊後は幼少の通称か?)となり、善久坊(後清林寺)を創立したとあります。
寺紋は真田家の紋所「六文連銭」です。