真田幸村公遺児阿梅・大八の墓
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、大坂方の智将・真田幸村は、伊達政宗麾下の片倉重長に4児(名前不詳の女児を加え5児との別説もあり)の養育を託して陣中に送ってきました。阿梅・阿菖蒲・おかね・大八の4児と、穴山小助の娘と伝えています。
遺児達が、白石城二ノ丸にて秘かに養育されているのを聞き、真田家家臣吾妻佐渡一族・三井奉膳等も、白石に身をよせてきたと伝えています。
やがて、阿梅は白石城主・片倉2代重長の後妻になり、阿菖蒲は田村定廣の妻となりましたが、おかねは早世し、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、伊達家に召し抱えられています。(別説におかねは、石川宗雲(林)の室となっていたともいう。早世はおかねではなく、名前不詳の女児との混同としているが、白石には伝わっていません。)
藩政時代・白石郊外の森合に、月心院がありました。現在は廃寺となっています。
「刈田郡誌」によると、重長後室・阿梅の方の建立した寺で、「真田幸村の位牌を置き、亡父の菩提を弔いしなり、幸村法号・月心院単翁宗伝大居士」とあります。
阿梅は、自分の願いで奥州街道沿いの当信寺に埋葬されています。
墓石は如意輪観音像を象っており、その形が歯痛のため頬を抑えているように見えるところから、虫歯に苦しむ人たちは、この墓石を削り、飲むと良く効くとの迷信が生まれました。
天和元年(1681)78歳で没す。法号・泰陽院殿松源寿清大姉。
現在、この泰陽院の墓と並んで、大八守信の墓が建っています。