白石城
白石城の名が文献に現れるのは、『伊達正統世次考』天文14年(1545)8月の条に、「刈田郡 白石城」の名が見え、城主は白石大和宗綱とあり、白石・刈田地方は早くから、伊達氏の支配下にありました。
天正17年(1589)政宗は、磐梯山麓摺上原の戦いで、蘆名勢を破り会津・白河・岩瀬など仙道七郡を制圧し、米沢から黒川城に本拠を移しています。
翌6月、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しましたが、秀吉は政宗が私戦禁止(関東奥州総無事令)に従わず、蘆名を滅ぼしたとして政宗の本領のみを安堵し、蘆名旧領を没収して蒲生氏郷(がもううじさと)に与え、氏郷は黒川城に入り、会津若松城と改称しました。
さらに、天正18年(1590)の奥州仕置の際、政宗は蒲生・浅井など秀吉麾下の諸将との確執や、一揆煽動の疑いなどから、伊達家本領地の長井・伊達・刈田などが没収され、葛西・大崎旧領に移封され、政宗は岩手沢城(現岩出山)に移りました。
この時、白石・刈田地方は蒲生氏郷の家臣・蒲生源左エ門郷成(がもうげんざえもんさとしげ)の領地となり、白石城を石積みの櫓を持つ近世城郭に改造し、益岡城と改称したと伝えています。
慶長3年(1598)には、上杉景勝(うえすぎかげかつ)領となり、白石城は家臣の甘糟備後清長(あまかすびんごきよなが)の居城となりました。
慶長5年(1600)、政宗は関ケ原合戦に向かう家康と呼応し、上杉領白石城を攻略、この地域は再び伊達領となっています。
政宗は慶長7年(1602)、白石城を股肱の臣・片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)に与え、以後、明治維新まで260余年の間、片倉氏の居城となっています。
戊辰戦争(明治元年)の際、会津藩の救解嘆願のため協議を続けていた東北諸藩は、奥羽越列藩同盟(31藩)を白石城で結び、輪王寺宮を盟主として公議府が設置されましたが敗れ、明治7年に白石城は解体されました。
現在の白石城は、資料の調査や発掘調査などを重ね、焼失後文政6年(1823)に再建された姿を復元したもので、平成7年5月より一般公開しています。